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〈トインビー対談開始50周年記念インタビュー〉㊤ 河合秀和学習院大学名誉教授

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〈トインビー対談開始50周年記念インタビュー〉㊤ 
河合秀和学習院大学名誉教授

〈トインビー対談開始50周年記念インタビュー〉㊤ 河合秀和学習院大学名誉教授

2022/05/21

〈トインビー対談開始50周年記念インタビュー〉㊤ 
河合秀和学習院大学名誉教授
2022年5月21日 

対談集は「人類の百科全書」

危機を越えるための視座が

本年は、池田大作先生とイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー博士との初めての対談が行われて50年。

新型コロナウイルスの感染拡大やウクライナ情勢など、先行きの不透明な状況が続く危機の時代にあって、両者の対談から改めて何を学び、行動の指針とすることができるか――。

比較政治学者である河合秀和学習院大学名誉教授へのインタビューを上下2回にわたって掲載する。

(聞き手=志村清志、小野顕一。㊦は23日付に掲載予定)

 

 

――1972年と73年に、イギリス・ロンドンで、池田・トインビー対談が行われました。河合名誉教授は、同じ頃に英オックスフォード大学に留学をされています。
 当時、東西冷戦の代理戦争であるベトナム戦争は泥沼化し、核兵器使用の可能性が高まるなど、国際社会は危機的な状況にありました。また、72年に発表されたローマクラブのリポート「成長の限界」では、「100年以内に地球が成長の限界に達する」との予測が示され、世界に衝撃を与えています。
  
 
私が当時2度目の留学をしていたイギリスでは、北アイルランドの宗派抗争が激化し、暴動やテロが頻発していました。池田会長とトインビー博士が対談されていた頃のロンドンも、いつテロが発生してもおかしくない状況だったのです。
 私自身の経験になりますが、ロンドンのハロッズ百貨店で買い物をしていた際、「爆弾が仕掛けられている」と店内放送があり、子どもの手を引いて必死に逃げたことを今でも覚えています。
 この70年代は“時代の転換期”でもありました。その象徴的な例が、72年2月のニクソン米大統領の中国訪問です。戦後から続いたアメリカの対中方針が、対立から協調へと大きく転換した瞬間でした。一方で中ソの対立は激しく、一触即発の状況が憂慮されていました。
 さまざまな危機に直面し、誰も先を見通せない混沌とした時期に、両者の対談は行われたのです。

 

「貴殿を英国にご招待し、現在、人類の直面している諸問題に関して、二人で有意義な意見交換ができれば幸いです」――トインビー博士からの書簡を通じた強い要請により、両者の対談が始まった

二つの問い掛け二つの問い掛け

 

――トインビー博士は、池田先生との対談前に、日本で実業家の松下幸之助氏ら識者と会談しています。その一人が河合助教授(当時)でした。
  
 
67年の晩秋のことです。アメリカ大使館近くで、トインビー博士と会食しました。

当時、私は東京大学で日本初となる比較政治の講座を担当しており、その先駆的存在である博士の研究方法から多くを学んでいました。
 博士からは二つの質問がありました。

「今、国体思想はどうなっているのか」というのが最初の質問です。

薄暗い店内でしたが、柔和な表情の中にも鋭い眼光を感じました。
 

国体思想とは、日本を万世一系の天皇を主権者とする類いまれな国とする思想で、戦前の軍国主義を推進する思想的な原動力でした。
英語の会話は軽い冗談から始まるので、私は「近頃の日本の若者にとって、国体とは“国民体育大会”のことだ」とまず答えました。

その上で、戦後の新憲法下で主権は国民に移ったものの、家庭内における家父長的な慣習、企業組織や村落における人間関係など、国体思想の影響は形を変えて残っており、そうした構造を克服していけるかが課題であると答えました。
 

二つ目の質問は、「創価学会はファシストか」でした。

当時、一部の新聞が「公明党はファシスト政党だ」と騒ぎ立てていたので、そうした報道の真偽を確かめたかったのでしょう。
それまで何人かの学会員と接してきた私は、創価学会が現世的な利益を肯定していることを知っていましたので、安易に命を捨ててお国のために尽くすような行動に走ることはないだろうと答えました。

加えて、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織です。

戦前への復帰を望むわけはなく、それどころか、民衆に自立心と誇りを与えていると思うと答えたのです。

大阪や京都の学会員との交流を通して、庶民的で現実主義的な関西人が創価学会と公明党を支えていたという印象も強くありました。
 

博士にとって、重要な質問はこの二つだけだったと記憶しています。

質問をし終わった後は、とてもリラックスした様子で会食を楽しんでいました。
  
  

大切な共通点

 

――二人の対談は75年に対談集『21世紀への対話』として出版され、翌76年には英語版『CHOOSE LIFE(生への選択)』が発刊されました。
  

当時、「グローバル」という言葉が一般的にはまだ使用されていない中で、グローバル時代の到来を前提に対談されたことは特筆すべき点であると思います。

大量のヒト・モノが国境を越えて移動するグローバル時代の到来は、国のあり方だけでなく、政治・経済、科学技術、ひいては人間のあり方そのものが問い直されるほどの大きな変革を世界にもたらしました。
普通であれば“今後どのような事態が世界で起こり得るか”といった未来予測が、対談の大半を占めてもおかしくない。

しかし、二人の対談は違いました。

対談集の第1章のタイトルが「人間とはいかなる存在か」とある通り、まず人間についての探究から対談を始め、その議論をもとに具体的なテーマへと展開されているのです。
 

イギリスの作家ジョージ・オーウェルの言葉を借りれば、両者の対話は「humanヒューマン decencyディーセンシー」を追求する対話であったといえます。

この言葉は訳すのが難しいのですが、「人間の人間らしいまっとうさ」とでも訳せばよいのでしょうか。

変化の激しい時代だからこそ、人間が本来持つ善性について深掘りをしようとする両者の姿勢も注目に値するといえます。

『21世紀への対話』

かたや西洋の歴史家、かたや東洋の宗教指導者と、背景の異なる二人ですが、対談では多くの点で一致を見ます。私は、二人の活動の出発点に「戦争の体験」があったことも、大切な共通点であると考えています。
1914年に始まった第1次世界大戦では、トインビー博士の学友の多くが戦地に赴き、命を落としています。

幸か不幸か、博士自身はギリシャでの旅行中、腸チフスにかかり、徴兵を免れました。

「友の死」という悲惨な経験から、「なぜ戦争が起きるのか」「どうすれば戦争を防ぐことができるのか」との問い掛けが、博士の生涯のテーマとなっていくのです。
 

その後、博士は、国ごとの歴史を探究する従来の歴史学と決別し、国家の枠を超えた「文明」という大きなスケールで歴史を捉え直そうと試みました。

その研究成果は、全12巻に及ぶ『歴史の研究』へと結実していきます。
 

池田会長も、太平洋戦争で兄を失い、家を空襲で焼かれるという辛酸を経験しました。

小説『人間革命』の冒頭を「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」との一節から書き起こしているように、戦争のない平和な社会を築くため、宗教家としての道を歩むことになります。
 

戦争の辛苦を味わってきた二人だからこそ、対談は、「人類は悲惨な戦争を二度と引き起こしてはいけない」という信条に貫かれていると感じました。
  
 
――対談集を手にした時の印象を教えてください。
  
 私は、オックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジの客員研究員に選ばれ、73年からイギリスに2度目の留学をしていました。

そこでは、哲学者のアイザイア・バーリン氏や宗教社会学者のブライアン・ウィルソン博士らと親交を深めていました。

ウィルソン博士はその後、池田会長と対談集『社会と宗教』を発刊しています。
 

76年の池田・トインビー対談の英語版が刊行された日、ウィルソン博士が早速、カレッジの同僚たちに書籍を配っていたのを記憶しています。たしか昼食の後でした。
バーリン氏はその日の夕食後、すでに対談を読み終えていたようで、「池田はトインビーよりも“センシブル”(sensible)だ」と楽しそうに口にしたことを覚えています。

英語の哲学者は、日常用語を用いて哲学を語るのですが、それをどのような意味で使ったのか判断に悩む場合があります。

「センシブル」は「分別がある」「もの分かりがいい」という意味なので、おそらく年少の池田会長が、大歴史家であるトインビー博士と対等に語り合ったのを愉快に感じていたのではないかと思います。
 一方で、敬虔なキリスト教徒であった私の古い友人は、対談を読み、「トインビーもまたセンシブルだ」と評していました。

博士は、もともとキリスト教を信仰していましたが、その限界を感じ、キリスト教と決別しています。

それにもかかわらず、宗教者である池田会長と心を通わせて語り合えたのはなぜか。

私の友人は、トインビー博士がキリスト教の宗教的立場にとどまらない、いわば人類普遍の立場に立っていたからではないかと語っていました。
その上で、異なる立場にあった二人が、なぜ、かくも多くのテーマにおいて共鳴できたのかを考えた時、私は、博士だけでなく、池田会長もまた、人類の普遍性を深く志向していたからだと考えます。

オーウェルが言うような「人間らしさ」という地平で両者は出会っているのです。
  
  

具体的な行動

 ――対談集を読んで、どのような感想を持ちましたか。
  
英語版の対談集を読み、「この本は人類の百科事典になる」と即座に感じました。

非常に広範なテーマについて語り合われているからです。

あるいは「人類の百科全書」といえるかもしれません。
 

「百科全書」の起源は、18世紀のフランスにさかのぼります。

思想家のディドロやダランベールら「百科全書派」と呼ばれる集団が中心となり、20年以上の歳月をかけて刊行されました。
全28巻にも及ぶ百科全書は当時の先進的な学問や思想、技術などの集大成です。

手に入れた人の多くが、各々の興味ある分野を調べる中で、それまでの既成概念から脱却し、自由な発想を得ることが可能となりました。

こうした新たな知見の普及が、1789年のフランス革命の下地をつくったとされています。
私は、池田・トインビー対談も同様に、新たな時代の思想・運動を生み出す契機となる百科全書のような存在になっていくと考えています。
対談集をお持ちの方の中には、あるテーマについて、両者が何を語り合っているのかと、対談集をひもといた経験がある人がいるのではないでしょうか。両者の対話では、例えば「ソ連が崩壊する」といった断定的なことは言われていません。また、50年前の対談でもあるので、現代の課題に対する直接的な答えはもちろん載ってはいません。
 むしろ問題の「本質」を巡る語らいが、淡々とした言葉で紡がれています。

“答えを探したくなるような本” “探せると思えるような本”として、これまで読まれ続けてきたのだと思います。

 

ロンドンのトインビー博士の自宅で語り合う池田先生と博士(1973年5月)。
のべ40時間に及ぶ語らいは、対談集『21世紀への対話』に結実した

先に述べた通り、対談が行われた50年前は、現在と同様、誰も先を見通せない時代でした。池田会長は「世界に対話の旋風を」とのトインビー博士の期待を受け、1974年5月に中国を初訪問。9月にはソ連を初めて訪問し、アレクセイ・コスイギン首相と会談しています。同年12月初旬には再び中国に渡り、中ソ対立の溝を埋めるべく、コスイギン首相から託された不戦の意思を中国首脳に伝えました。さらに翌75年1月に渡米し、ヘンリー・キッシンジャー国務長官との初会見に臨んでいます。
 

「あなたたちは、世界のどこの勢力を支持しようとお考えですか」とのキッシンジャー国務長官の問いに、池田会長は「東西両陣営のいずれかに与するものではありません。中国に味方するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもありません。私たちは、平和勢力です。人類に味方します」と答えています。
 

75年にトインビー博士は亡くなりますが、池田会長は、その対話の精神を引き継ぎ、変革のための具体的な実践を起こしていったのです。
 

だからこそ、この対談は単なる百科事典にとどまりません。抽象論ではなく、実際に何ができるのかを模索した対談だからこそ、その視点は今も色あせないのです。
 

人類の危機的状況にあって、博士と語り合った内容を、ただの対話に終わらせるのではなく、あくまで現実のものにしようとする池田会長の行動があったからこそ、対談は今も輝きを放ち、新しい視座を引き出す土台となり得るのではないでしょうか。
  
  

プロフィル

かわい・ひでかず 1933年、京都府生まれ。62~65年、73~75年、オックスフォード大学で研究活動を行う。専門は比較政治、イギリス政治。学習院大学教授、中部大学特任教授などを歴任。

 

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