アルピニスト・野口健さんからの贈り物① 徹底責任個別指導の未来義塾✎✎
2021/08/20
アルピニスト・野口健さんからの贈り物 ©野口健事務所
インタビュー アルピニスト・野口健さん――自然と人間を守る
「私がつくる平和の文化Ⅲ」の第8回は、アルピニスト(登山家)の野口健さんです。
登山だけでなく、山の清掃活動や子どもたちへの環境教育、さらに被災地支援などを行う野口さんに、
現場に身を置くことの大切さや、より良い社会を築く鍵などについて聞きました。
世界最高峰に挑む
――野口さんは1999年、25歳でエベレスト登頂に成功し、当時の7大陸最高峰の世界最年少登頂記録を樹立しました。
エベレストの頂上は、卓球台二つ分くらいの広さです。
遮るものがないので日差しが強く、北はチベットの平らな高原、南は何重にも連なるインドの山脈。
壮大な眺めでした。
青春の夢がついに現実となった瞬間でした。
僕はアメリカで生まれ、外交官だった父のもと、幼少時代からサウジアラビア、日本、エジプト、イギリスと各国を転々としました。
なかなか勉強に集中できず、荒んだ生活を送るようになり、何とか進学した高校では、けんかをして停学になる始末でした。
そんなある日、書店で偶然、手にしたのが、登山家である植村直己さんの『青春を山に賭けて』という本でした。
落ちこぼれで自信のなかった植村さんが登山を通して自分の価値を見いだしていく。
その内容に感動し、「自分も山に登りたい」と志を立てたのです。
その後、富士山をはじめ国内の山々を登り、17歳の時、アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロを登頂。
この時、「世界7大陸の全ての最高峰に立つ」との夢を抱き、挑戦を始めたのです。
エベレストの頂上付近で(2007年)©野口健事務所
社会の「B面」を大事に
――野口さんは登山活動のかたわら、シェルパ(ヒマラヤに住む民族で、登山隊の荷揚げ・案内人)の支援に力を注がれています。
幼い頃、父に世界各地へ連れていってもらいました。
ただそれは普通の家族旅行とは異なるものでした。
例えばエジプトに行った時は、観光地として誰もが行くようなピラミッドではなく、カイロ郊外のスラム街を訪れるのです。
父は言いました。
「世の中にはレコードのようにA面とB面がある。
A面は、放っておいても目に見える。
でもB面は、あえて行かなければ見えない。
世の中の大事なテーマはB面にあるんだよ」
ヒマラヤ登山におけるB面が、まさにシェルパの存在でした。
登山家が登頂に成功しても、それを命懸けで支えるシェルパに光が当たることはありません。
事実、その陰で数多くのシェルパが事故などで命を落としています。
1995年、ヒマラヤで雪崩が発生し、13人の日本人が亡くなるという痛ましい事故が発生しました。
この時、私の友人を含む多くのシェルパも犠牲になったのですが、日本で報道されたのは、日本人の登山者とその家族ばかり。
シェルパが取り上げられることは、ほとんどありませんでした(=その後、野口さんの尽力で一部メディアで報道された)。
シェルパの生活は貧しく、生計を立てるために、危険を冒してでも山に登らざるを得ない。
不慮の事故で亡くなった場合、残された家族はどうなるのか。
僕にとっては見過ごせない問題でした。
そこで2001年に「シェルパ基金」を立ち上げ、遺族の子どもたちへの教育援助を始めたのです。
世界中の登山家が賛同し、寄付をしてくれました。
ある遺族の少年は、この基金で学校に通い続けることができ、後年、日本へ留学。
その時、わざわざ僕に会いに来てくれたのです。
「今の自分があるのは、野口さんや日本の人たちのサポートのおかげです。
心から感謝しています」と日本語で話してくれました。
本当にうれしかった。
今でも忘れることはできません。
「現場を見る」こと
――感動的なお話です。
野口さんは、エベレストや富士山の清掃活動にも尽力してこられました。
実をいうと、最初から環境問題に関心があったわけではないんです。
きっかけは「見てしまった」ことなんです。
エベレストに登るたびに、ごみが目について仕方がなかった。
日本語が書かれたごみもたくさんあり、ひとごとではありませんでした。
海外の登山家からも「日本人はだらしない」「ヒマラヤをマウント・フジのようにするな」などと言われ、悔しい思いをしていました。
それを見返すために清掃活動を始めたのです。
ただ、富士山については最初、ピンと来ませんでした。
当時の僕はまだ、雪で覆われた富士山しか登ったことがなく、富士山が汚いなんて、思いもよらなかったのです。
それで、夏に登ってみるとごみだらけ。
青木ケ原樹海なんて、不法投棄されたタイヤの墓場でした。
注射器などの医療廃棄物もあり、異臭が漂っていました。
そこで、2000年から富士山清掃活動を開始しました。
当初はやってもやっても、ごみは減らなかったのですが、協力者の増加とともに4年目あたりから減り始め、今では、5合目から上は、ほとんどごみはなくなりました。
「現場を見る」ってすごく大事で、自分の目で見て、知ってしまうと、人って「自分にも何かできないか」と思うものです。
どこか気持ちの中で「背負う」んでしょうね。
そこから「じゃあ、ごみを拾おう」となる。
私の活動の原動力も、そこにあります。